日付 : 2004年11月末

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The DUST'N'BONEZ

2004 NOV vol.001

DEBUT ALBUM 2004.11.26 release
FLAME SKULL BASTARDS

ワンマンライブ開催決定!!
TOUR '04 FLAME SKULL BASTARDS

OFFICAL GOODS MAIL ORDER START



HISTORY OF The DUST'N'BONEZ

2004年3月17日、深夜。恵比寿MILKの狭苦しいステージで、とてつもない存在感を持ったバンドが、飢えきったオーディエンスを相手に毒と華をまき散らしていた。彼らの名前は、The DUST'N'BONEZ。メンバーは森重樹一(vo)、坂下たけとも(gt)、戸城憲夫(ba)、そして満園英二(ds)。そのバンドにとっての、まさに正真正銘の初ライブがそれだった。

The DUST'N'BONEZというバンドが存在するらしい。そんな曖昧な事実が初めて公の場で認められたのは、2004年1月7日、戸城憲雄のオフィシャル・ウェブサイト上のことだった。そこに彼自身が「今年から始めっかな、と思っているバンドの名前」として、この言葉を書き込んでいるのだ。

BAD SiX BABiES解散後、さまざまなレコーディング・セッション等に手を染めつつも、いわゆる音楽的なホームグラウンドを失った状態にあった戸城。その多彩かつ鋭角的なソングライティング・センスと、理屈を超越したロックンロール感覚に心酔する多くの偏食気味なロック・ファンが、そうした状況を憂い続けていたことはいうまでもない。というか、ZIGGY、THE SLUT BANKS、BAD SiX BABiESで彼が体現してきたものを知っている人たちならば、彼の不在がこの種のロックンロールにとってどれだけ大きな損失であるかを、充分すぎるほど理解しているはずだ。

で、実際、彼がぼちぼち動き始めるらしいという兆候は、実は2003年の段階から観察し得るものだった。前述のウェブサイト上において、同年2月には「GUNS 'S ROSESの1stよりカッコいい長髪ロックンロールにしたる」と鼻息の荒いところを見せつつも、「絵やデザインは1人でもできるけど、バンドはメンバーが揃わないとできない」と、構想はありつつもお膳立ての揃わない窮状が明かされていたりする。が、その年9月になると”タケちゃん”なるギタリストとセッションを行っているという事実がさりげなく認められ、ファンの間では「竹田和夫か、それともChar(竹中尚人)か?」といった根も葉もない憶測だけが飛び交うようになる。言うまでもなく、それは”坂下たけとも”だったわけだが。

2004年1月に入ると、戸城の古巣であるZIGGYのフロントマン、森重樹一がソロ制作を開始。そこで同時に戸城が参加し、楽曲を提供するという情報が公となる。結果、森重がMORISHIGE,JUICHI名義で3月17日に発表した通算5作目のソロ・アルバム『ROCK & ROLL SiNGER』において、戸城は収録曲のうち約半数でベースを演奏し、彼自身が作曲を手掛けた「Rusty Voice」は、結果、6月に同作からシングル・カットされることにもなった。

一方、The DUST'N'BONEZという名前のみがひとり歩きし、噂だけが肥大しつつあった。”知られざるバンド”のほうも、水面下で具現化されつつあった。冒頭に記したこのバンドの1stライブが『ROCK & ROLL SiNGER』の発売当日に行われたことは結果的に偶然でしかないが、事実、双方のプロジェクトは、いわば背中合わせの関係性で同時進行してきたのである。モノゴトの発生した順番も正確に説明することは、おそらく彼ら自身にとっても容易ではないだろう。とにかく、森重がソロ制作のプランを抱えていたことがThe DUST'N'BONEZの具現化に一役買ったことは間違いないし、彼と戸城のなかにThe DUST'N'BONEZという構想があったからこと、『ROCK & ROLL SiNGER』のカタチが明確化されることになったといえるはずなのである。

The DUST'N'BONEZの起源を発掘しようとすれば、それもまたひとつの偶然、あるいは必然的事件というべき瞬間に突き当たる。

2002年夏、幕張。『サマーソニック』のステージにHANOIROCKSが立ち、世代を超えた空腹なロックンロール中毒者たちが、そのライブ・パフォーマンスに扇動されていた。で、満員電車のなかでモッシュするかのようなオーディエンスの渦の中で、長らく顔を合わせる機会のなかった戸城と森重は、本当に偶然に、再会を果たすことになったのである。彼らが「また機会があったら何か一緒にやろう」という、あまりにも具体的でない約束を交わしたのはこの時だった。社交辞令などではなかった、2人のケミストリーが生み落とすものの確かさは、ZIGGYの歴史が証明している。さらに、戸城のZIGGY脱退により両者のコラボレイトの場が失われていたことの重大さを誰よりも痛感していたのは、他ならぬ彼らの2人であったはずなのだから。

どうであれその再開以来、The DUST'N'BONEZは「戸城が曲を書き、森重が歌うバンド」という基本構造を土台としながら、ゆっくり時間をかけながら少しずつ現実味を帯びてきた。ギタリスト、ドラマーの選択については、彼らが長らくアタマを悩ませてきたが、ちょうど一連の活動が一段落つき、事実上休止状態にあったsadsの坂下を交えての”束縛性のない気ままなセッション”は、そこに見事な化学変化をもたらした。さらに、彼とsadsで活動してきた満園をそこに招き入れたとき、他の誰でのなく彼ら自身が、何か大きなモノが爆発するのを体感していた。それはあくまでアタマのなかで想像されていたThe DUST'N'BONEZが、カラダを持った瞬間がそこにあった。

これから先、何が起こり得るのかは、まだ誰にもわからない。が、少なくとも彼らの音に少しでも触れ、そのライブを一瞬でも目撃したならば、誰もが鼓動のスピードが高まっていくのを、血が沸騰し始めるのを感じることに違いない。少なくとも、あなたが本当にスリルに満ちたロックンロールを求めているならば。

SPECIAL INTERVIEW
記念すべき、デビューアルバムレコーディングも終了真際の10月の上旬、バンド結成の経緯から今回のアルバムまでの流れをメンバーが語る。The DUST'N'BONEZは、一体どんなバンドなのか?これぞ正真正銘、4人揃っての初インタビュー。独占掲載!!

――まずはThe DUST'N'BONEZ誕生の発端から。一体どんなふうにして始まったんですか?
戸城「ていうか知ってんじゃん?」
――いや、そこを改めて。
戸城「それもなんか恥ずかしくね?(笑)」
森重「あれは、、、2003年の2月だね。新宿厚生年金会館で戸城くんとHANOI ROCKSを観た帰りに”なんか一緒にやろうよ”って話になって。実はその前の年のサマソニで久しぶりに彼と再会してて、そのときもHANOI ROCKSとGUNS N'ROSESを一緒に観てたんだけど」
――なんか、音楽的にとりもたれた関係って感じですね。
森重「まさに。1999年に2人が別れたときは、音楽的に指向性というか戦略的なところで視点がすっごいズレてたわけだけど、そこで久々に話してみて”ああ、相変わらずだなあ”と思ってね。それこそ、そういうシチュエーションだから、初来日の頃のHANOI ROCKSとその時点で彼らとの違いとか、そういった話になるじゃない?善し悪しとかじゃなくて、偏った価値観として。で、やっぱり同じように感じているだなと思えるところが大きくてさ。当時聴いていたアーティストとかの共通項もあったしね。そこで”なんか一緒に”って話になったわけなんだよ。ただ、そこで一緒にやるために彼がZIGGYに戻るなんてのは全くナンセンスな話だし、単純に俺は、そのときに一つ思ったことがあったんだ。過去、彼と俺の間ででき得た事のなかにさ、ひとつだけやってない手段があるなって。それを試してみたかったっていうのがあるんだよね。」
――その手段というのは?
森重「いわゆる音楽的なイニシアチブっていうのを、戸城くんに完璧にとってもらうということ。そこで俺はシンガーとして…。俺は生まれてこのかた自分のやってきたバンドの中で、ほとんど自分がメイン・ライターとしてやってきたわけ。ボーカリストとして詞書いて、曲書いて。そうじゃないカタチでやってみたいなって思った。単純にバンドのシンガーっていうポジションをやったことは、それこそ高校の文化祭ぐらいしかないんだけど(笑)それをやれる相手として彼ならいいっていうか、それ以外の誰かとはそいういことをやりたいとも思わないだろうなって。それに加えて、あの戸城憲夫が、いわゆる自分のバンドのライブを2年もなってないって事実に自分なりに愕然としたというか、”違うだろ?”って思いもあったし、離れていた間に俺が得てたことを踏まえれば、今、彼の音楽の上で歌うにあたってのアイデアも増えてるはずなっていう確信もあった。」
――なるほど。戸城さんは当時、どんな心境で日々を過ごしていたんですか?
戸城「いや、べつにかわんねえよ」
――いわゆるセッション的な活動はありましたけど”自分のバンド”を始めたいという欲求は高まってたわけですよね?
戸城「もちろんね。ただ、そんなにも気合を入れて考えてはいなかった。逆にそこで、一緒にやる人間さえ決まれば気合も入るわけだけど。”こういうのをやりたい”ってのはあったよ。こんな俺でも、なんで自分がちょっとの間だけとはいえプチ・ブレイクしたのかって理解はしてるつもりだし」
――具体的に言うと、どういうことですか?
戸城「髪の長い、男ガッツのロックンロールっていうか(笑)キッズが燃えてナンボ、みたいな(笑)楽器弾きは”下手っぴだけどカッケーな”って思われることが大事かなって思ってたし。でも、ま、そこで一緒にやるべき相手は誰かって突き詰めていくと、”森重くんしかいないじゃんか!”っていうのがあるわけよ、ぶっちゃけ。ま、そこでパンクやりたいんだったら違うヤツと組むけどさ、やっぱこういうロックやるんだったら。」
――得意技を仕掛けるときにタッグを組んで一番信頼できる相手、というか。
戸城「だね。それにこういうロックって、俺らがやれば説得力あるじゃん?多分(笑)昨日までパンクやってたヤツがGUNS N'ROSESがどうのって言っても説得力ねぇじゃん?逆に俺が”パンクだぜ!”って言っても絶対駄目なのと一緒でさ。幸い、そういうイメージでちょっとだけプチ・ブレイクしたことのある俺としては、その後のセールスの変動なりオトナの事情なりに揉まれつつ、いろいろあったわけだが…」
森重「まあね。そこで”一番リアリティを持てることって何なの?”ってことを自問してたところはすっごいあった、俺にも。で、実際サマソニ観に行ったときも、HANOI ROCKSがあれだけ盛り上がるとは思ってなかったわけよ。俺としては単に”いちファンとして、なんとか見届けねば!”みたいな気持ちで足を運んだところがすごいあったし、正直、やっぱり再結成ってものにノスタルジックな匂いを感じずにはいられないこともあった。ただ、それでもファンであることには変りはないし、仮にそれが全盛期のような域に達してなくても、それは宗教みたいなもんだから、新譜が出ればお布施を払うように俺は買い続けるしね。そういう気持ちでHANOI ROCKSを観たときに、やっぱりすげえ単純にカッコイイなと思えて、そういう話をした時に戸城くんがまったく同じ視点だなと思えたところが大きかったね」
――自分たちが一番得意とするものが、実は時代にも求められているんじゃないかという確信も、そこで得たってことですかね?
森重「んー、そこまでは正直なかった。時代の要求云々じゃなくて、結局はだたあの時、”多分そこだもんな、俺たちの共通言語は”ってことになっただけ。それがあったからこそ何年も一緒にバンドやってこれたんだよな、と。音楽的にもいろいろ変遷はあったし、下手は下手なりに模索もしてみたけど、結局多くの人が自分たちに望んでるのはそういう変化じゃないんだよなってことは俺もホントよくわかってたし。だから時代に求められようが求められていまいが、俺が戸城くんと何かいずれやれたらいいなと漠然と思ったのは、やっぱり同じものをカッコイイと思える視点があるって思えたからこそだし、そこでやるべきこともおのずと見えてた。」
戸城「ま、こういう時代が来るぞと思ってたところはあるよ。”そろそろ来るぞ”ってずっと言ってたんだけどさ、自分のやってる音楽のことは(笑)ただ、予測はして、でもそこに歩み寄ろうってわけじゃないし。そこはそもそも俺にとって、いわば自分のテリトリーなわけだからさ。」
森重「そこが居場所、ホームグラウンドだって自覚はあるよね。だから例えばパンク的なことをやるにせよオルタナティブなことをやるにせよ、ある種、そのホームグラウンドがあったうえでのアプローチだった気がするんだ、戸城くんを見てると。でもやっぱり基本的にはフリルのシャツを着て帽子を被って、チャラチャラやってるのがこの人だって気がするしね。そこにいることが一番似合うっていうか、似合わない人はフリルのブラウス着たところで”おまえはやめとけ”ってことになるわけで(笑)神様のキャスティングみたいなものでもあるとおもうんだけど」
――2人が意気投合するところまではともかく、そこから先、同じ価値観や関係性を共有できるメンバーを見つけるのはかなり困難だったんじゃないですか?
戸城「うん、だから実際、しばらく何もできなかった。腰も重いし(笑)だけど、いざ決まったらあっという間だったけどな」
森重「曲はいくつかもうその時点でもらってたしね。”こういうのやりたいんだけど”っていうデモ・テープを。で、実際聴いて”カッコいいじゃん”って思って、俺もいくつか歌詞書き始めてたし。やりたいことの青写真みたいなものが見えてると、自分なりに焦点も絞れるし、準備みたいなことはできるからね。”上手くても、絵が悪かったらやんねえよ!とか言いながら」
戸城「全然説得力ねえけどな、今の某バンドのことを考えると(笑)」
坂下「…すごいインタビューだなあ(笑)」
森重「ま、同じルックスのバンドばっかりやるわけにはいかんから(笑)」 坂下「最初は良くても途中から変っていく場合も多いし(笑)」
戸城「ま、でも、確かに候補は何人か考えてたし、電話で話したりしたヤツもいたけど、実際会って音出してみたのは、たけちゃんだけなんだけどな」
坂下「最初は下北沢の某居酒屋で会って」
戸城「俺はたけちゃんのステージ見たことなかったからさ。まずは会って話してみよう、と。で、話してみたらノリも軽いし一発OK、みたいな(笑)」
森重「当初、戸城くんは”sadsのやつかよ。どうなんだよ”とか言ってたんだ。観たこともないのに(笑)でも俺は観たことあったし、めちゃめちゃカッコイイと思ってたから、”結構好きだと思うけどな”って言ってて。で、実際会ってみたら”いいじゃん、いいじゃん”って」
――で、その居酒屋での席に、どういうわけか呼ばれたのはエンジニアの赤波江さんとワタクシで(笑)もうあの時点で、ドラマー不在ではありつつも、すでに”バンドです”って空気になってましたよね?
戸城「確かに。で、ドラマーは誰かってことになり…まずは一度、たけちゃんと音を出してみたかったから、他のドラマーと一緒にスタジオに入ったりしたんだけども」
森重「それが去年の9月頃の話かな」
戸城「うん。で、なかなか話しに英二が登場しないから余計なことは省いて言うと(笑)ドラマーについては具体的な候補がいないも同然だったから、たけちゃんに”誰かドラマーいない?”って聞いたわけよ。そしたら英二の名前があがって。それで一緒にスタジオ入ってみたらすっげえ盛り上がって…それはよく憶えてる。これはすげえドラムだ、これぞ俺の求めてたドラムだって思った」
満園「それが去年の12月だね」
――坂下さんはその時、迷わずに英二さんを推薦したわけですか?
満園「いや、迷ってたよね(笑)」
坂下「その前、最後に会ったのが高円寺のライブハウスで英二が久々にライブやった時で。英二、腕壊して腹を手術したあとだったから、けっこう辛そうだったんだよね。しかも俺はその時点で、この先きっと英二は死ぬだろうと思ってたから(笑)」
満園「俺もsads辞める時点で、もう死ぬかもと思ってた(笑)少なくとも、もうドラムは叩けないだろうって」
坂下「ところが実際、スタジオに呼んでみたらすげえ元気良くなってて。下手したら昔より元気じゃないかっていうぐらい活気があって、プレイも完全に復活してて」
――英二さんの沈黙期間、長かったですよね。結局、どういうことになってたんですか?
満園「順を追って言うとね、まず俺はsadsのツアー中に左手をおかしくして、それが一応片付いてツアーに戻ってきたあとに今度は大腸が破れて…それで右足が利かなくなった段階で、実際、死ぬんじゃないかと思ってた。もうバンド活動云々という以前にね。で、これからどうすんだっていうミーティングがあったのよ、sadsでの活動について。それが2003年4月の話かな。で、俺はもう、そのミーティング自体にすら這って行く様な感じだったし、必死でいないと椅子にも座っていられないような状況だったから、とてもじゃないけどバンドにまつわる様々な業務のできないし、正直、心身共にバンド活動が不可能な状態だったから」
坂下「もはや生きモノとしてヤバかったからな(笑)あの頃の英二」
満園「うん(笑)で、当時sads側にかけてた負担の大きさは自覚していたし、それをこれ以上増やしたくないっていうのもあったし。そういうあらゆることを含めて、辞めたい、と。俺とsadsとの関係は、その時点で完全に終わったんだ」
――その後、回復は順調だったんですか?
満園「いや。腕を壊した段階で酒をやめる決意を固めて実際やめてて、そのうえでさらに右の下腹が破れちゃったもんだから、これはもうダメかと思ってしばらくは寝てたんだよね。実際、自分の叩くドラムの音量に耐えられないくらい精神的にも、肉体的にも参ってた」
坂下「まるで廃人だったもんね」
戸城「なんかこれ、いい宣伝材料になっちゃうよな。英二は死に神を見た、みたいな(笑)」
満園「”地獄から帰ってきた男!”みたいな(笑)」
戸城「おかしいし超オイシイよ(笑)」
坂下「しかも全部ホントの話だからね」
満園「実際、当時の俺はキックも踏めないし、右足と左手が利かないから、もうドラム叩くどころじゃないわけよ。ただ、冗談みたいだけど、それでも俺、ホント音楽やりたかったから、当時はテクノ系の機材とか買ってみちゃったりとかして…で、それをいじってるうちに、なんとかドラムを叩けるように復活したいなあと思うようになって、電子ドラムなんか叩いてみたりもして。で、まあ徐々に回復して8月にちょっとライブをやってみて。でも終わった後やっぱまだ駄目でさ。そんで、そのままウダウダいろいろやってて…今度こそ大丈夫かな、と思ってた時期にたけちゃんから電話があったのよ」
――なるほど。こう簡単に片付けちゃいけない話だとは思いますけど、めぐりあわせとタイミングって、ホントに大切ですよね。
戸城「ホントだよな」
満園「多分、廃人状態の時に俺に会っても、戸城さん、絶対やりたいとは思わなかったはずだもん」
戸城「実際、たけちゃんも薦めてなかったからね、最初(笑)」
――で、結果そこで4人のメンバーが出揃ったわけですけど…坂下さんとsadsとの関係というのは、結果、そうなってるんですか?
坂下「なんていったらいいんだろう。やっぱり、あくまで”sads=清春くん”だからね。俺の契約自体はもうないのでね、ずいぶん前から。つまり事務所辞めちゃったってことだけど。そのことも清春くん、とりたてて公表してないでしょ?sadsとして発表すべきことはすべて彼がいうわけだから、今、俺から言えることがどこからどこまでかっていうのはすごく微妙なんだけど…ま、少なくともメンバーではないですよ、俺はもう」
――しかし、sadsが終わったとか坂下さんが脱退したという発表はあったわけでもない。
坂下「うん。でも、それを俺が勝手に言っていいものかっていうのがあるじゃないですか。だってsadsは清春くんだから、やっぱり」
戸城「…ま、そりゃそうだよな」
坂下「ただ、脱退したのは事実ですよ」
――sadsの所属事務所からも離れたし、sadsというバンド自体も動いていないし、事実上そこに属しているはずもない、と。さらに言うと、仮に清春さんがsadsを再始動させようとした場合、そこに無条件で名を連ねるはすの人間ではない、ということですか?
坂下「うん。そこにいる可能性はきわめて低いと思う。わかんないけど」
――”また動くことがあった場合は必ず呼び戻すから待っていてくれ”というような約束事も…
坂下「ないですね。だから自分としては完全に離れてる。実際、ライブ観に来てる子たちから”sadsどうなってるんですか?”って訊かれることもあるけど…」
――だからあんまり訊かないで、と。
坂下「そうそう(笑)」
森重「難しいね、そこんとこは。バンドによってそいうメンバーの位置関係というものも微妙に違うんだろうし。契約状況とかさ」
坂下「うん。ただ、ここでひとつだけ言っておきたいんだけど、俺、このバンドも含めて、いろんな活動を始めたのはFULLFACE(sadsの事務所)を辞めてからだから。sadsファンの間ではいろんな噂も立ってるみたいだけど、俺は今も清春くんのことは好きだし、人間としてもミュージシャンとしても、尊敬すらしてるから。そこは誤解して欲しくないな」
森重「ま、いろんなゴシップ的なものもあるみたいだけど…そのへんには惑わされずにいて欲しいな。要はさ、誰もスジの通ってないことはしてないってことだよ。それだけは間違いない。俺だってある意味、ZIGGYファンの一部に対しては非常に不信感を与えてるかもしれないね。ただ、わかって欲しいのは、俺たちは別に仲良しチームで幸せな王国を作ろうとしてるわけじゃなく、ただ純粋にいい音楽を作りたくて、その音楽に相応しい仲間と一緒に実際いいものを作ってるんだってこと。それだけだよね。そこになんら他意や悪意やそういうものは、一切無い」
――わかりました。で、話を戻すと、この4人で初めて一緒に音を出したのが2003年12月。その時はもう、”これしかない!”って感じだったわけですか?
戸城「そこまで大袈裟ではないけども、でも、すんげえ盛り上がったよな?」
坂下「うん、楽しかった」
森重「なんかさ、アマチュアの時にバンド始めるのってああいう感じだったよね。実際に音を出してみて、そこから全て始まるっていうか。ただ、逆になんか”失敗したくない”っていうと変だけど、そういった思いも俺には少なからずあった。やる以上は、万人を納得させられるようなガツンとしたものにしたいっていう気持ちがね。ガーンと行っちゃえばいいっていう反面、こうして戸城くんと俺がまた何か一緒にやるって時に、”始めたけどすぐポシャりました”っていうのは絶対避けたいと思ったし、だから慎重でもあったと思う。ただ、それでもこの4人で音を出したときは”ああ、これだったら滑りだせるな”って感触があったから」
――結果的には、すごく近いところでパズルがかみ合ったわけですよね?
戸城「うん。結局は音楽性の問題だな。誰も遠いところにいないじゃん?どメタルがいるわけでもないし、ROLLING STONESかぶれがいるわけでもない。ホントに狙ってるところを理解できる顔ぶれっていうかさ」
――ええ。で、そういてメンバーが出揃った頃、森重さんはソロ活動を。
森重「そうそう、俺、その時はソロ・アルバムの制作まっただなかで」
――そこで戸城さんとのコラボがあり、ソロ・ツアーに戸城さんのみならず英二さんの参加もあり…。しかもそんな狭間、ちょうどソロ・アルバム『ROCK&ROLL SiNGER』の発売当日だった3月17日の深夜、恵比寿のMILKでThe DUST'N'BONEZとしての初ライブが行われてるんですよね。」
森重「BACKYARD BABIESとかの出るイベントがあって、じゃあ出ちゃおうよ、と(笑)出演順があんまり遅いと絶対酔っ払って演奏できないから、早めの時間帯にやらせてって言ってね(笑)」
満園「あの時のライブで”ああ、始まるんだな”ってすごく感じた」
森重「うん。締切りじゃないんだけども、”ここがスタートだ”っていう気持ちがひとつのところに集まった感じはあったね」
満園「あのとき、俺、BACKRARD BABIESには勝ったと思ったもん。完全に」
坂下「いや、実際勝ったよ(笑)」
戸城「一方的な勝利だな(笑)」
満園「もう間違いないな、と(笑)」
戸城「…図々しいなあ、みんな」
――ていうか、誰よりもそう思ってるくせに。
戸城「まあね、もちろん(笑)」
――で、森重さんのソロ・ツアー終了後、5月からある種ゲリラ的なライブ活動を。
戸城「ソールドアウト伝説が始まったわけだな。数回で終わったけど(笑)」
――本格的にライブ活動するにあたって、改めて意思統一みたいなことは?
森重「いや、べつに」
坂下「てゆうか、こんな真面目な話をしたこと、これまでになかったよね(笑)」
満園「うん。なんつーか、当時は、バンドを始めるにあたって抽象的な部分を把握するようなプロセスだった気がする。共通言語を増やすための期間というか。それはどんなバンドでも経るもんだと思うけど。ただね、その頃はこのバンドのリハがあったり、森重さんのソロ・ツアーやそのリハがあったりするなかで、来る日も来る日も戸城さんと森重さんに会ってて」
戸城「ああ、そうだったな」
満園「お互い、とても数ヶ月前にちゃんと知り合ったと思えないくらいずーっと一緒にやってるような気分だったなって(笑)」
森重「すげえ濃密だったね。逆にソロの時たけちゃんとしばらく顔を会わせずにいると、すごく長いこと会ってないような気がしたりもして(笑)そこで急速に共通言語が増えたところもある気がする」
――キャリアのある人たち同士が組んだバンドの場合、どうしてもそこに綿密なプランがあったり、コンセプトとか着地点が固まっていたり、全てがきちんと計画されているように思われがちですけど…そういうところが全然ないんですね。
戸城「いや、あるね(笑)」
――ではそのコンセプトについて…
戸城「いや、ないない。ホントは(笑)」
森重「ハードルとして自分たちに課すものはないよね。いつまでに何を達成する、みたいなのは」
戸城「ま、髪の毛があるうちに、毛をたたせられるうちにそれっぽい音楽をやっとこうかっていうだけだな(笑)そういうのが似合うロックをさ」
森重「同じような年齢でも、もうやれない人もたくさんいるはずだからね」
戸城「そうそう、ラッキーだよな。俺の年齢で”やっぱニッキー・シックスだぜ!”なんて言えないヤツ、いっぱいいるはずじゃん?(笑)」
――なるほど。で、本題ともいうべき初音源についてなんですけども、ソールド・アウト伝説の中で(笑)ファンの要求の熱さに煽られたとこともあるんでしょうか?早いとこ音源ださなきゃ、みたいな。
戸城「それはないね。まったくない」
森重「ある種のタイムリミットっていうか、そういのが確実にあると思うんだよね、こういうバンドの場合。やっぱ体力がすごく大事だし、持久走みたいなところもあるから。だから、悠長に構えて”堂々の完成!”っていうよりは、ザーっとやってザーっと出したいっていう気持ちが強かった。短期間で濃縮したやつをね。妙に熟成されたものは出したくないっていうかさ。熟れてないもののカッコ良さって、バンドの初期にしか出せないもんじゃない?」
――言い方を変えると、1stアルバムならではの特権を追求するってことですよね?
森重「うん。1stアルバムは一度しか出せないからね。それこそメジャーとすごいディテールを結んで、大型新人として出せるっていうのは最高かもしれないけど、そういう状況を待つよりも、インディーズでも何でもいいから、とにかくみんなの気持ちが高まってるときに、ファンも心待ちにしてるときにガツンと出したいっていうのはあったよね」
――音楽的な意味での、1stアルバム理想形みたいのはありました?
戸城「例えばAEROSMITHの『ROCKS』とか、GUNS N'ROSESの1stとか…。なんでもいいけどね、LED ZEPPELINの2ndとか。ガキの頃の衝撃ってあるじゃん?ま、GUNS N'ROSESは同期だったからシャクにさわるけど(笑)そういうなんつーのかな、”良かったじゃねーか、あの頃のロックはさ”みたいな。ノスタルジー的な意味じゃなく」
――つまり…今から10年後、20年後にそういうふうに語られるであろう作品だということですか?
戸城「そうそうそう。多分VELVET REVOLVERの1stとかだってそういうもんなんだろうって気がするしさ」
――実際、9月にアルバムの制作準備が始まって…レコーディングには正味どれくらいの時間を要したんですか?
戸城「2週間くらい?」
森重「正確には…13日間だな」
戸城「カッコいいからキリのいいとこで10日間にしといて」
坂下「だはははは!」
戸城「1週間でもいいや(笑)」
満園「”わずか1週間で完成された衝撃のデビュー・アルバム!”みたいな(笑)」
森重「ま、そういうとこでカッコいいほうにサバを読むと、あとでツケがまわってくるからな(笑)15日ぐらい、と逆にサバを読めるぐらいの気持ちが大切かも(笑)」
――どちらにせよ速いですよね。しかも連日スタジオに朝までカンヅメになってたわけでもなさそうだし。
戸城「まあな。けっこう健康的だった」
森重「みんな上手いから」
坂下「俺のことっすか?(笑)」
森重「ちゃんとやりたいことのビジョンがはっきりしてるから、速いよね。そこにトライアルはいくつでも出てくるけど、選択肢はおのずと見えてくる。要するに取捨選択に悩まないからなんだよね」
――レコーディングを始めてから、改めて気付いた事も多々あるんじゃないですか?
満園「俺は正直、戸城さんがこんなに音を重ねる人だとは思わなかった」
戸城「これまで、まったく重ねないようなこともあったけどね。重ねるのをすっげえ嫌った時期もあったしさ。でもこのバンドは、いわゆるハードロック的な聴こえ方をするギターバンドであって欲しいというか、決して”ガレージバンドが一発録りで作りました”的な感じにはしたくなかったから」
満園「そういう戸城さんのしっかりとしたディレクションを見て感心させられたし、あとね、たけちゃんて上手いなあと思った。何年もなってるけど今回もそう思ったな。ギターでトラックが締まるっていうか。もちろん森重さんの歌も、戸城さんのベースもすごい」
戸城「そうかあ?俺は全然上手くないぞ。基本的にヘボだから」
満園「でも楽しいんだ、戸城さんのベース。で、やっぱりレコーディングの時は、ライブでやってるのとか、リハで”おおーっ!”となるのとは違う質の盛り上がりがモニター・スピーカーから聴こえてくるっていうか。とにかくかなり気分が良かったね。
坂下「うん、レコーディング、楽しかった」
戸城「楽しかったよな。それに涙を流したことか(笑)なんかさ、たけちゃんにセンチメンタルになるフレーズを弾かれちゃうと”たまんねえな、おい”って(笑)”こりゃ男も女も泣くよな!”とか言いながらやってたんだよな(笑)」
坂下「うん。”ここはキッズが駆け寄ってくるな!”とか(笑)」
戸城「そうそう。”ここでキッズはガーっと盛り上がってくるから、しっかり盛り上げてね、頼む !”とか(笑)そうやって注文つけてたから」
坂下「でもね、実際、昨日は家でラフ・ミックスを聴いてたんだけど、森重さんの歌詞を聴きながら、マジで涙出そうになった」
――泣けるアルバムなんスね、ある意味。
坂下「実は(笑)ま、とにかく聴けばわかるはず。ものすごいっスよ。自分たちでやってるのに、なんかけっこうヒトゴトのように純粋に聴けるんだよね」
森重「うん、それはあるね」
満園「しかも聴いてて発見があるんだな」
戸城「すげえ自分の中で変ったのは、俗に言う泣きのメロディーとか極端に嫌ってたこともあったんだけど、そういうのも全く関係なかったからな、今回は。俺も中学の頃はRAINBOWとか好きだったけど、あの手のものを毛嫌いしてた時期もあるわけよ。お洒落じゃないから。”ロックンロールだ!”って言ってる自分にとってイモに感じられたから。だけどそういう種類のフレーズすらここではアリ、みたいな。つまり要は、なんかもう自分の好きなものは好きっていうか、自分の通過してきたものを否定する必要がないっていうか。もちろんベーシックになるものもあるけどさ、だからってそこでハードロロック/ヘビーメタル的な要素を拒絶する必要もないしね」
――芯の部分さえしっかりしてれば、そこに様々な色が交わっても、そこでブレることがないってことですよね?
戸城「そうそう。だから…ま、極端な話、EUROPEなんバンドは嫌いだけど”Final Countdown”って曲にはいいとこもあるよね、みたいな。そういう曲のフレーズの美味しさなんかは否定しなくていいじゃん、と」
――めちゃくちゃ極端な例ですね!(笑)
戸城「ま、好きなもんは好きなんだから、みたいなことだわな、結局」
森重「こうしてある程度年をとってきて、そこでやっぱ自分の通ってきた道に嘘をつけないっていうのはあるよね。それはすごい感じる。それは払拭できないし、それを好きだったってことがカッコ悪いわけじゃないんだ。人様が見たとき、例えば俺が何かを好きだったことがカッコ悪い、イケてないことだったとしても、”好きだった”こと自体がその人にとってリアルだったなら、それはカッコいことだと思うんだ。万人の言う”カッコいい”が必ずしも同じところに向いてなくても俺はいいと思うし」
――つまり要は、やりたいことのために、自分の過去なり要素に嘘をつかなくていいっていうか…
森重「つーか、要素でやれることが素直に出ることがやっぱカッコいいことなんではないか、と。そんな気がするね」
――アルバム自体の詳細については”聴けばわかる”と思うんですけど、とにかく完成前の段階から名盤の匂いがプンプンするというか…。この作品が世の中にどう受け入れられることを望んでます?
戸城「…なんだろうな。よくわかんねえけど、みんな納得してくれるはずだと思う。森重と戸城が組んで、たけちゃんと英二連れてきましたって言ったときに、これだったら許してくれるんじゃねえかなって」
坂下「ははは!一体、誰が何を許すんでしょうね(笑)」
森重「なんか、でも、すげえじゃん。40歳過ぎてもこういうことはできるんだな!”っていう前例を作ってしまった気はするね」
満園「あ、確かに俺もそれは思った」
――確かに。なんか今の言葉には、無条件に頷いてしまいますけど。
森重「でしょ?まったくレイド・バックしていないっていうか」
戸城「そうそうそう!全然レイド・バックしてないからね。それは言える」
森重「泣きだとかワビ・サビだとか、いろいろあるんだけど、ただ、そこに意識としてレイド・バックというか、ノスタルジーを求める感覚はまったくない」
――実際、聴いててもそういった要素は全く感じられませんからね。
戸城「逆に若いもんね。ちょっと前よりもなんだか若くなってきてる」
坂下「うん」
満園「だって”これ、なんかテンポがおっさん臭くない?”って、戸城さんが言って”そうだね”って言いつつテンポが速くなっちゃうようなバンドだから(笑)」
森重「”だからあんた、おっさんじゃん!”って俺は突っ込みたかったけどね(笑)どんなテンポにしようがおっさんはおっさんなはずなんだけどね」
坂下「アタマんなかは17歳ぐらいだから、戸城さんは(笑)まあ、俺は13歳だけど(笑)」
――30代らしいロックとか40代ばらではのロックというのも、なんか不思議と典型みたいなものが決まりつつあったと思うんですけど、それが必ずしも正しくないってことの証拠みたいな作品ですよね。
満園「ま、そういうことをしようと考えてたわけじゃないし、”どうとらえられるか”みたいなことを全然考えずにやってるから、訊かれても困るんだよね、正直なことろ。ただ、”カッコ良くやろう”っていうのと”ノリ良く行こう”みたいなのの産物だから。30代、40代云々っていうのは、”あとから考えてみれば”ってことでしかないんで」
森重「気付いてみたらそうだった、と」
満園「だから”世に問う”というよりは、ま、”世に在る”という感じでひとつ…」
森重「別に投げるわけではない、と」
満園「あんまり問うタイプには見えないしね、俺たち」
――問うとすればむしろ自分自身に…
戸城「ああ…なんか深いなあ。そういう話はやめとこう(笑)」
森重「はははは!実は深いんだけど、そこについて自覚的であることを嫌ってるんだよね、この男は(笑)」


MORISHIGE,JUICHI : vocal / BIRTH : 28th August / PLACE : TOKYO

いくつかのバンドでの地下活動を経て1984年にZIGGYを結成。1987年にメジャー・デビューを飾り「GLORIA」始めとする幾多のヒット曲、武道館公演に象されるサクセス・ストーリーを歩む。以来、同バンドが創設20周年を迎える現在まで唯一のオリジナル・メンバーである。並行して、1995年発表のシングル「夢一夜」を皮切りにソロ活動も開始しており、最新作にあたるMORISHIGE,JUICHI名義での『ROCK&ROLL SINGER』に至るまでの過去5作のソロ・アルバムを発表。
絶望的なほどにバッドボーイズ・ロックを溺愛するロックンロールシンガーである。


TAKETOMO SAKASHITA : guitar / BIRTH : 8th Maech / PLACE : HOKKAIDO

兄の影響もあって幼少時のころからロックに馴染み、中2当時にKISSのコピーバンドを体験。上京後、プロデューサー/ギタリストの土方氏に師事しつつ、ドラゴンアッシュなど数々のアーティストとのセッション活動を重ねたのち、1998年「MARIA」のビデオクリップ撮影時から黒夢に関わるようになり『CORKSCREW A GO GO!』にサポートギタリストとして参加。黒夢のオーディションを受けるために某ブ×グリのリハーサルを蹴ってクビになったという武勇伝もある。
1997年7月、オリジナルメンバーの一人としてsadsでのデビューを迎え、以降、同バンドのサウンドの要であり続けてきた。
ロックンロールにクルマ。スピード感のあるものに目がないギタリストである。


NORIO TOSHIRO : bass / BIRTH : 5th July / PLACE : SAITAMA

ベーシストとしてのみならず、森重と対を成すシングライター、ロック的エンターテイメントの枠を超えた、パフォーマンス及び言動で、1999年の脱退までZIGGYに多大なる貢献と、数々の混乱を重ねてきた根っからのギャンブラー。同バンド在籍当時からLANCE OF THRILL、THE SLUT BANKSをはじめ、BAD SiX BABiESといったバンドでも邦楽/洋楽メジャー/インディーズの枠を超越した鋭角的な活動ぶりは多くの音楽ファンから共感を集めた。
The DUST'N'BONEZにおける音楽的な舵取りを担う”骨の髄までロックンロール”なベーシストである。


EIJI MITSUZONO : drums / BIRTH : 14th April / PLACE : AICHI

15歳のときからドラムスを始め、1988年、真っ黒けボックスなるバンドでメジャー・デビュー。1992年にはWILD FLAG、1995年にはBOW WOWと確実にキャリアアップしながら1998年、黒夢の『CORKSCREW A GO GO!』ツアーにサポートドラマーとして参加。以降、みずからのバンド活動やHITOKI-PINANHAHEADSをはじめとするセッション活動を重ねたのち、2001年3月、sadsに正式加入。2003年4月の脱退まで、野性味溢れるダイナミックなプレイでバンドサウンドの屋台骨を支えてきた。
カフェインとニコチンとロックンロール中毒のドラマーである。







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